■建築主との「対話」
建築主がいる。
「あなたにとって生活するとはどういうことでしょうか?」
「あなたの家には、建築的にどういうものが必要ですか?」
そんなことをいきなり聞いたのでは、相手はきっといいたいこともいえなくなってしまうのではないだろうか。設計者に対して構えている人なら、なおさら哲学的に答えなければいけないような雰囲気に圧倒されてしまうに違いない。
私は、「どういう家を望まれますか」とか「家族構成はどうなっていますか」という類いの質問から始めることにしている。すると、いくつものフランクな返答が返ってくる。現在までの暮らしと比較する人もいれば、8畳の和室が欲しいなど、直接的に空間を設定する人もいる。
そうした建築主から返ってきた答えに、角度を変えた質問を加えてゆくと、その会話のなかで、相手のもっている「許容量」を把捉することができる。「許容量」などというと、その人の器の大きさを測っているようでおこがましいが、つまり住宅に対してどれくらい自由な発想をもつことができるのか、といった意味である。そして、その「許容量」を把握した後で、冒頭の「生活とは?」や「必要なものは?」といった質問にもっていく。
基本計画の主軸になるのは、この最後の質問に対する答である。私がこの答に期待するのは、最後の質問に至るまでに相手から出た要望をいったんストックすることのできるような答、つまり細かい具体的な要求よりも、優先して考えることができるような類いの答ということになる。それはたとえば、「BARN-1」では「明るく開放的であること」、「BARN-3」では「光と風の建築」という要求だったりする。あまりにも直接的に空間を限定されると、私自身のインスピレーションがかき立てられない。
だから建築主に、「住むこと」に対する精神的なレベルでの的確な主張がある場合、計画の拠りどころをその答えに求めることになる。とはいっても、的確な「住居論」をもっているケースの方が稀だから、いつもは、私のインスピレーションが阻害されない範囲で、お互いが理解しあえるキーワードを残し、「対話」を終えることになる。
■私の「住居論」
住居に限らず、建築の計画を進める際に、私はまず、その建築がもっている用途の確認作業から始める。何のための建築なのかということである。
「住居」とは、入が住み生活を送る場所と認識している。その「住居」に、なければならない建築的な要素とは何なのか。
人の生理を考えると、水廻りと呼ばれる設備部分と、食べること、寝ることができるスペースを設定しなければならないと思う。ひょっとすると、これだけが「住居に必要なもの」といえるのかも知れない。要素だけを抜き出すと、
ワンルームマンションの一室と同じ機能が備わっていることになる。この状態を、私は否定も肯定もしない。先入観をもたずに、要素の蘇生を行えば、健全な状態をつくることきっと可能なのだと思う。
余談になるが、渓流釣りを始めてから、川辺でキャンプをする機会が増えた。キャンプサイトでの生活は、自然に触れ、気持ちの良いものである。渓流の水で米を研ぎ、飯盒でメシを炊き、青天の下、適当な石を見つけて腰を据えてメシを食う。夜は、火を炊き、ワイン片手に釣り談義。「飯はストーブで炊くより、やっぱり薪がいい」、「岩魚は遠火でじっくりと」などなど。夜が更けるまで話し込む。酔っぱらったやつから、順にシュラフにもぐり込む。私のcolemanの4人用のテントは、5人が寝てもゆったりしている。まるで住居である。たまにやるから、気持ちが良いのか、毎日だと大変なのか。定住に対応できるキャンプサイトがつくれたら・・・。そんなことを考えている。住み方を選べば良いのだ、生活の仕方を選べば良いのだ、と。
空間をイメージせずに、行為をイメージすることで、既成概念に捕らわれない住居を設定することが可能になるのではないだろうか。もちろん、これが住居に対する私の考え方のすべてではない。しかし、行為を優先するが故につくられる環境を計画をしなければならない、という感党が自分のなかにあることは確かである。
■空間の立ち上げ方
空間を立ち上げるとは、妥当だと思う分量の高さを平面に与えることだと思っている。水平方向の広がりは、平面で決定するわけだから、垂直方向のプロポーションをいかに設定するかが、空間を設定するということになる。
さらに、空間の立ち上げ方を考えることは、空間を構成する構造体について考えることである。私のなかで構造体とは、軸組構造のことを指す。余談になるが、私の仕事の進め方を見た友人は、事務所名に「アトリエ軸」という別名を付けて私のことを笑う。けなされているとも思えないし、まんざら悪い響きではないから、次からそう名乗ろう、などと思ったりしているが。
それはともかく、つまり、それほど私が計画する建築は、構造種別を問わず軸組で構成されでおり、軸組を好んで使っている。建築性能的に余程の理由がない限り、最初から壁式構造を選択して計画にとりかかることはなく、最初に壁式を選定して計画を始めると、タガをはめられた感覚となり、身動きできない状態になってしまう。
軸組構造は、構造体から受ける制約がなく、実際に空間のなかで、「構造がつくる空間」を経験しているようにいきいきと感じることができる。理由はよく分からない。もちろん、これは私の個人的な「感覚」であって、軸組構造が優れているとか、壁式構造が劣っているという話ではない。だが、なぜか軸組の構成であれば、つくる前から建築を体感している感覚をもつことができる。
■「BARN」という手段
私は、これまでに4つの「BARN」を計画してきた。私のなかでの「BARN」という言葉のイメージは、質素な素材をあるがままに使用した、素朴で単純な構成の小さな小屋というものである。
ちなみに、「BARN」、を辞書で調べると、@(農家の)納屋、物置、A牛や馬の小屋、Bがらんとした建物、などとなっている。農機具を収納したりするがらんとした「納屋」は、おおざっぱなスペースの設定を感じさせ、逆に、牛や馬あるいは養鶏場のような「小屋」は、理詰めで解いたシステマティックな印象がある。私が設定する「BARN」は、この両者の特質をもった建築を示している。自分の言葉で、一言で表現すると「理詰めで解いたザックリした建築」ということになる。
こうした建築がつくりだす造形には、共通のルールがある。それはまず、要求される機能を満たすための仕掛けが即物的で潔いということ。また、各部のデイテールや素材が、無造作に感じるほどありのままに表出しているが、そのほとんどが理詰めで解かれた意味をもつということである。
私が、軸組構造にこだわるのは、このあたりに原因があるのだろうし、建築主との打合せも、最終的にはこのルールをどこまで相手に「許容」してもらえるか、というやり取りにつながっていくのだと思う。逆にいえば、建築主の感性を最大限に引き出し、そのなかで実生活の上での要望をクリアしていく作業がきちんとできれば、このルールは自然と守られるのかもしれない。
「BARN」は、私のなかでの建築の祖型であり、私が建築をつくるときの、ベーシックなものの考え方を示す手段である。そして同時に、今のところ私がたどりついた、住宅というものの解答を導き出す、もっとも有効な手段の1つであるように思っている。
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